2018年2月4日日曜日

2018/02/04 福音集会

今日の福音集会では「備え」というテーマでお話がありました。

「終活」という言葉があります。身辺整理や遺言などに関することですが、それらはすべてこの世に関することです。
聖書にはこんな言葉が書かれています。

イスラエル、あなたはあなたの神に会う備えをせよ。」アモス4章12節
祝宴の家に行くよりは、喪中の家に行くほうがよい。そこには、すべての人の終わりがあり、生きている者がそれを心に留めるようになるからだ。」伝道者の書7章2節

私たちの本当の終活は神様に会う備えです。人の終わりに心を留めることは大切であると聖書は語っているのです。

ルカの福音書16章19-31節にはこんな記事があります。
ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。
 さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」

地上ではラザロと金持ちは全く違った生活をしていました。しかし、この地上での状況は違っていてもみな同じように死を迎えます。
ラザロはユダヤ人にとって信仰の父であるアブラハムのいるところ、つまり神様のもとへ連れていかれました。

この記事から三つのことが考えられます。
①死は終わりではない
金持ちが死後行った場所には感情も意識も苦しみの感覚もありますが、財産や社会的地位はついてきませんでした。この世のもので死後を保障するものは何もないのです。

ここで聖書が語るのは、裕福そのものが悪いことであるということではありません。与えられたものそれ自体ではなく、それをどう管理していたかが問われるのです。

②二つの行き先があるが、互いに行き来できない
金持ちの五人の兄弟たちに「モーセと預言者」、つまり聖書が備えられているように、私たちには今すでに神様の備えがあるのです。私たちはその神様の言葉に聞き従う必要があります。

③死後のことは聖書に従ったかどうかで決まる
コリント人への手紙第二5章21節から6章2節にはこう書かれてあります。
神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。神は言われます。「わたしは、恵みの時にあなたに答え、救いの日にあなたを助けた。」確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。
神様は完全な備えをして私たちを待っていてくださいます。「神に会う備え」とは神様の備えを受け入れることです。神様が一方的な恵みである救いを用意して待っていてくださっているということを、私たちが信じて受け入れることなのです。


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