2017年9月24日日曜日

2017/9/24 福音集会

 最近は昼は暑いのに朝夕は冷え込むという厄介な気候ですね。
私は毎日脱いだり着たりをして温度調節していますが、みなさまも体調に気を付けてください💪
 さて、今日も聖書からのメッセージを紹介したいと思います📖

出エジプト記に出てくる奴隷の話

 出エジプト記の21章には奴隷についてのルールが書かれています。そこでは、へブル人の奴隷は7年目には自由の身で去ることができるとあります。そして、主人が奴隷に妻を与えた場合、7年目に去ることができるのは奴隷だけであり、奴隷の家族は主人のものとなるのでした。
 しかし、「私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。」と言うなら、主人は奴隷の耳をキリで刺し通し、彼は家族とともにいつまでも主人のもとにいれるのです👪
 奴隷は自分自身で痛みを負い、自ら犠牲となることで、愛する家族といつまでもともにいることができるのでした💓
 この記事から、家族の愛やつながりが本当に素晴らしいと感じます。また、この記事からはイエス・キリストのことを考えることもできます。

イエス・キリストの犠牲

 イエス・キリストは十字架にかかりました。では、なぜ十字架にかかったのでしょう?彼はその生涯で悪いことをするどころか、良いことだけをして生きていかれました。彼に罪を認める者はおらず、神様も「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。」と言われました。


「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」ローマ人への手紙4章25節

 私たちはみな死にます。それは罪のためだと聖書は語ります。すなわち、私たちはみな罪があるということです😰この罪を解決するすべを私たちは持っていません。それはあまりにも莫大なのです。
 それゆえ、イエス・キリストはこの罪のために、身代わりになって十字架にかかってくださったのです。一点の罪もないお方が、罪の負債をすべて負って払ってくださった。これが十字架の死なのです💓💓
 このイエス・キリストにありがとうございますと言って罪の赦しを受け入れるだけでよいということなのです。死への不安も裁きの恐怖も必要ありません。罪の解決は、イエス・キリストがしてくださったというのです❗❗❗

おわりに

 先日、私の集会でも家族合同の追悼記念会というものをしました。ともに死について考える機会を持てました。私たちは必ず死にます。イエス・キリストによる赦しはとても感謝なことです。死んだ後に行く先は神様のところと決まっています。どうかこのイエス・キリストのくださった救いを受けられますようにお勧めします。

2017年9月10日日曜日

2017/9/10 福音集会

こんにちは!だんだんと涼しい日が多くなり秋が近づいてきましたね。


今日も福音集会で語られたメッセージの一部をご紹介します。

聖書には、神様を信頼する人は死んだあと、神様がおられる世界へ行くことができるということが書かれています。
ではこの世界は神様を信じるための“猶予期間”なのでしょうか。
実はそうではないのです。
神様を信じた人にとってこの世は天国へ行くための待合室となるのではありません。

例えばフライパンについて考えてみましょう。
フライパンはフライパン自身のために存在するのではなく、それを使う人のために存在します。
フライパンの存在の目的はそれを作った人が作る前から決めているのであり、フライパン自身が決めるのではありません。
フライパンを食器として使ったとすると、取っ手が邪魔で、見た目も良くありません。
しかしフライパンをフライパンとして使ったとき、それは存在の目的を果たし、それを作った人がほめたたえられるのです。

私たちも私たちを創られた神様の目的のために存在しているのです。
「主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、…」箴言16章4節

私たちは自分がどう生きるかではなく、神様が私たちをどう生かそうとされているのか、神様が私たちに与えられる計画について知らなければならないのです。

また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。」コリント人への手紙第二5章15節

私たちが自分自身のためにではなく、神様のために生きるようになるために、神様はイエス様をささげられました。

私たちは神様の性質に似せて創られました。
神様を愛し、また人を愛するものとして創られたのです。

しかし罪によりそれは崩れ、ねたみや争いや支配という関係が生まれました。

私たちのためにイエス様を犠牲にされたその神様の愛を知り、その愛を受けとることで、私たちは再び神様を愛し、人を愛するものへと変えられていくのです。

しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」コリント人への手紙第二12章9-10節

私たちには弱さがありますが、その弱さを通して神様の素晴らしさがあらわされることがあるのです。
神様は弱さをもったままの私たちを選ばれる方です。
あなたも弱いまま、そのままの状態で神様のもとへ飛び込んでみませんか?





2017年9月3日日曜日

2017/09/03 福音集会


夏の怪談話のひとつに、番長皿屋敷というお話があります。
大事な皿を一枚割ってしまい、死んだ女が化けて出て、皿を「一枚、二枚...」と数えていきますが、「八枚、九枚...一枚足りない。うらめしや...。」
と言うお話です。

これによく似た話が、実は聖書にも出てきます。

一枚の銀貨を失くした女の話です。
皿屋敷の話と同じように、この女は10枚の銀貨を持っていましたが、最後の一枚を失くしてしまいました。
しかし皿屋敷とは違い、最後には銀貨を見つけ、さらに近所の人たちを呼んで「一緒に喜んでください。」と言って終わります。ハッピーエンドです。

この話は、イエス・キリストが話した例え話です。
なくなった銀貨とはなんでしょう。
それは、私達人間です。
神様にとって、私たちは失われた存在なのです。

どのように神様は失われた私たちを得ることができるのでしょうか。
それは、神の御子イエス・キリストの十字架という犠牲によってです。
そして私たちは自分の罪を認め、自分の思いを神様の前に吐き出し、神様の方に心を向ける必要があります。
その時に、失われた銀貨である私たちは、主人のもとに戻ることができ、主人である神様はそのことを喜んでくださいます。

コリントⅡ5章17節
だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。

お知らせ

本日の午後の集会は台風の影響の為、中止となります。 2018/9/30