2017年6月25日日曜日

2017/6/25 特別伝道集会

こんにちは!

今日は、一日特別伝道集会で、栗本さんをお招きして、お話いただきました。
語られた聖書のみことばを紹介します。

本当の居場所というテーマでお話いただきました。
財布を持っていたとしても、手元にないとジュース一本買えず、意味をなしません。適切な居場所はどんな物にもあります。
人間も同じで、居場所がないと生きていけません。

<ルカの福音書15章11節~>
イエス様がたとえ話をしている場面です。
二人の息子がいましたが、弟は問題児でした。
お父さんに、死んだ後にもらえる分の遺産を今くださいとせがみました。

そのお金をもって、街を遊びあるきましたが、飢饉が起こり、お金もなくなり、やっと見つけた仕事は豚の世話でした。しかも、豚の餌さえ食べたくなるほど、惨めな状況になりました。

そこで、父親にあやまり、許してもらうために帰ります。父親は許してやり、家に迎えます。ハッピーエンドの話です。でも、不可解なところが2つあります。このことはまた後述します。

このたとえ話では、
父親は、神様をなぞらえています。
弟息子は、罪人である私たちの人間を表しています。

この世界を作られたのは神様です。

ローマ人への手紙1章20節
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によってはっきりと認められるのであって...(略)


神様は目に見えませんが、
天体や、人間の身体のつくりをみるたびに、神の存在を知ることができます。

神なんてを知らない、神なんていないと考えることは、一番の罪です。

罪は、最初の人間、アダムとエバの時に世界に入りました。二人は神様のたった一つの命令を守ることが出来なかったのです。
以来、人間には遺伝のように罪の性質が受け継がれて、神から離れる存在となってしまったのです。
しかし、それは人間のあるべき姿ではありません。
神様がアダムに、「あなたはどこにいるのか」と問うた通りです。

さて、ルカの15章のたとえ話に戻ります。
不可解な箇所があると述べましたが、20節にその箇所が出てきます。

20節
ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。

①父はなぜか家から遠い場所にいた。

なぜでしょう。それは、家で待っていたのではなく、近所を探すところから始まり、だんだん遠くへ、毎日毎日探し回っていたからに違いありません。

②父親から息子に走り寄って行った

当時のユダヤ人の父親像は昔の日本の親父像のようにどんと構えて、子供の方から走り寄っていく、というものでした。しかしこの父親は、喜びのあまり、息子に走り寄って行ったのです。

この父親の姿から、神様が私たちをこのように愛してくださる方であることがわかります。
そしてこの父親が息子を思うように、神様は私たちに帰ってきてほしいと願っておられます。

ヨハネの福音書3章16節
神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものがひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。

2017年6月18日日曜日

2017/06/18 福音集会

集会所の前には素晴らしい紫陽花が咲き誇っています。


今日は「十字架の言葉」というお話がありました。

神様はこの世界を創られ、私たちにも命を与えてくださいました。
しかし私たちは自分を生かしてくださっている方から離れ、自分勝手に生きています。

神様から離れると不安になる私たち人間は、神様に代わるものを色々と作り出してきましたが、それらは不完全で不安定なものなので私たちも不安になります。

自分で何とかして幸せになろうとすることを聖書では罪といいますが、その罪をもった私たちのために、神様はイエス様をこの世界に送られ、イエス様は十字架に架かってくださいました。

イエス様が十字架上で語られた言葉は聖書に7つ記録されていますが、今日はそのうち3つが紹介されました。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23章34節)

朝9時に十字架に架かれられたイエス様の最初の言葉ですので、イエス様の一番の願いであるということがわかります。
聖書には人々がイエス様を十字架につけたことが描写されていますが、同時に別の観点からはイエス様が自ら進んで十字架に架かられたことが分かります。
神様から離れて自分勝手に生きている私たちの罪を負い、私たちに代わって神様に赦しを求めてくださったのです。

三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイの福音書27章46節)

この日昼の12時から3時まで、全地が暗くなって真っ暗であったことが聖書に書かれています。
人の目から隠されたこの3時間、神様から徹底的に裁かれたイエス様が語られた言葉なのです。
神の子としてではなく、罪そのものとして神様の前に立たれて全ての罰を受けてくださったのです。

③イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。(ヨハネの福音書19章30節)

「完了した」には「支払いが終わった」とか、「領収済みである」という意味があります。
私たちの罪のための支払いはイエス様ご自身が完全に終えてくださっているのです。

イエス様は十字架で死なれましたが、3日目に復活されました。
今イエス様は私たちのそばにいてくださり、私たちに救いを受け入れるよう語ってくださっています。
変わることのない完全なイエス様という土台があると、私たちは周囲の状況によらず、安定した人生を送ることができるのです。

みなさんもぜひイエス様を自分の救い主であると信じ受け入れ、確かな人生を送りませんか?


2017年6月11日日曜日

2017/6/11 福音集会

こんにちは!
紫陽花の綺麗な季節になりましたね!

今日も、伝道集会で語られた聖書の言葉をご紹介します。

ヨハネの福音書12章24節から49節のイエス様が話された言葉が解説されました。

23節
まことに、まことにあなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

ここでは、イエス様は、ご自身を麦になぞらえてお話しされています。イエス様は私たちの罪を、ご自身が死ぬことによって贖うためにこの世に来られました。

36節
あなたがたに光がある間に光の子どもとなるために、光を信じなさい。

救われるのにはタイミングがあります。神さまは忍耐して待っておられるのです。

37節
イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。

奇跡を目の当たりにしていた人もイエス様を信じない人はたくさんいました。

40節
「主は彼らの目を盲目にされた。また彼らの心をかたくなにされた。(略)

信じるべきときに信じないと、心が固くされて、信じられなくなってしまうことがあります。

47節
わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たのです。

イエス様が人となって世に来られたのは、人を救うためです。
しかし、次に来られるときは、さばくことを目的として来られます。

48節
わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしがはなしたことばが、終わりの日にその人をさばくのです。

また、こうあります。

49節わたしは、自分から話したのではありません。私を遣わした父ご自身が、わたしに何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。

聖書には、イエス様が、話された言葉がたくさん記録されています。
イエス様のことばを聞いて、神様の計画とみこころを知り、信じて救われる人となっていただきたいと思います。

2017年6月4日日曜日

2017/06/04 福音集会

みなさまこんにちは。6月に入り、日も長くなってまいりました。いかがお過ごしでしょうか。今日は聖書の福音、よき訪れについて共に考えることができました。テーマとなるみことばはこれです。
「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ書116節)
福音とは何でしょうか。それはキリストに関することで、神の御子キリストが十字架にかかってくださったこと、そこで私たちの罪を代わりにおってくださったこと。そして、復活してくださったことです。
「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ316節)

 どうして救われなければならないかということから考えてみましょう。テーマの言葉が記された当時のローマは人々が堕落しきっていました。贅沢を尽くし、食への強すぎるこだわりや権力争い、不道徳がありました。福音はこのローマの状況をも変えることができる神の力であるのです!実際、ローマでは権力者の中からもクリスチャンが起こってきます、ローマが変えられていくのです。私たちの中にも変えられるべき問題があるのではないでしょうか。
 では、このような問題の原因は何でしょうか。それは、神を神としないということであります。私たちは、私たちを生かしてくださっている神様がおられることを知ろうとしているでしょうか。探し求めれば明確に分かるようにしてくださっているのに、見ようとしないことは問題の始まりであります。神を神とせず、別のものを第一にすることこそ堕落の始まりであったのです。
「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなりその無知な心は暗くなりました。」(ローマ書121節)
 この堕落した生活、私たちの姿をみている神様は、立ちかえってほしい思いから、私たちをなすがままになさいます。私たちは何も裁かれないから大丈夫なのではないのです。神様は立ち直るのを待っておられますし、立ち直らないものに刑罰があることは明確に示されています。
 しかし、初めのみことばに戻ってみましょう。福音こそ救いを得させる神の力です。なぜでしょうか。キリストの十字架は私たちのすべての罪を赦すための十字架でありました。神様の前にある負債はすべて支払い済みです。その証拠にキリストは復活されました。このキリストに信頼するものは救いを受けます。
 神様を軽く見て、神様がいないようにして生きていかれるでしょうか。ぜひ神様を認め、この救いのみことばを受け入れられますように強くお勧めいたします。

「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ書425節)

お知らせ

本日の午後の集会は台風の影響の為、中止となります。 2018/9/30