tag:blogger.com,1999:blog-78670345306832455812024-03-13T22:39:05.785+09:00京都西京極キリスト集会に集うクリスチャンのブログAnonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.comBlogger34125tag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-2860885095668820782018-09-30T10:18:00.004+09:002018-09-30T10:18:51.991+09:00お知らせ本日の午後の集会は台風の影響の為、中止となります。<br />
2018/9/30Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-72092118549342864152018-06-17T15:12:00.000+09:002018-07-04T15:16:01.218+09:002018/6/17 福音集会<br />
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif;">みなさんこんにちは。今日は<span lang="EN-US">6</span>月、梅雨真っただ中の日曜日でしたが、すっきり晴れて気持ちのいい青空が広がっていました🌞<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<br /></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif;">今日の福音集会ではエレミヤ書が開かれました。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="text-align: center;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif;"><b>「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。</b></span></div>
<div class="MsoNormal" style="text-align: center;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif;"><b>―主の御告げ―</b></span></div>
<div class="MsoNormal" style="text-align: center;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif;"><b>それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、</b></span></div>
<div class="MsoNormal" style="text-align: center;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif;"><b>あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ。」</b></span></div>
<div class="MsoNormal" style="text-align: center;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif;"><b>(エレミヤ書<span lang="EN-US">29</span>章<span lang="EN-US">11</span>節)<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></b></span></div>
<div class="MsoNormal" style="text-align: center;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif;">これは捕囚にあったエルサレムに対する神様の約束です。このような平安を与えてくださる神様は私たちにも平安を与えてくださる方です。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif;">今日のメッセンジャーの方も以前のご自身を振り返って言われました。「達成感だけが頼りだった。心の安らぎや幸福ははるか遠いものだった」と。この方も福音を信じて、人生を神様にゆだねる方となられました。全知全能の神様が私たちに平安を与えることを計画しておられます。神様にすべてをゆだねるとき平安が与えられるのです。福音を信じることが神の力であるのです。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif;">私たちの罪をゆるし、救いを与えてくださるイエスキリストを信頼し、平安を得られますように。<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif;"><br /></span></div>
<div class="MsoNormal" style="text-align: center;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif;"><b>「福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、</b></span></div>
<div class="MsoNormal" style="text-align: center;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif;"><b>救いを得させる神の力です。」</b></span></div>
<div class="MsoNormal" style="text-align: center;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif;"><b>(ローマ人への手紙<span lang="EN-US">1</span>章<span lang="EN-US">16</span>節)<span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></b></span></div>
<br />Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-86779650658559366572018-05-31T17:58:00.003+09:002018-07-04T15:16:18.231+09:002018/5/27 福音集会 みなさま、お久しぶりです。5月ももうすぐ終わりますね。梅雨が始まり、雨⛆🌂の多い季節が来るのかと思うと少し憂鬱な気分にもなりますが、嫌と思えることの中にも幸いが隠れているものです。「小さな喜びに出会える人になりたい」という歌詞を思い出します🎵🎵<br />
さて、今回は特別ゲストに来ていただいて、お話を伺いました。少しお分かちしたいと思います。<br />
<br />
第二列王記5章にナアマンという将軍が出てきます。彼はツァラアトを患っていました。彼は預言者エリシャのもとへ行って直してもらおうとします。すると、エリシャは「ヨルダン川で7回身体を洗いなさい」と言います。するとナアマンは怒って、もっときれいな川があるのにどうしてヨルダン川できれいになるのかと言います。しかし、ナアマンの部下は「もし、難しいことを言われたらなさったのではないですか。エリシャは7回洗うように言っただけではないですか」といさめました。ヨルダン川でナアマンが身を洗うとツァラアトは直りました。<br />
<br />
さて、この箇所にはナアマンの問題の解決が描かれています。彼はツァラアトを患っていました。彼は最終的には癒されますが、彼を解決から遠ざけたものは何だったでしょうか。それは、無知を認めないことでした。彼はどうすればツァラアトが直るか知らないのに、エリシャの言ったことを否定しました。しかし、彼に対する神様の恵みはそれで終わりではありませんでした。ナアマンが否定したとき、彼には部下の助言が与えられました。神様は、わたしたちが神様の言葉を信じられないことを知っているので、何度も語りかけてくださるのです。ナアマンに対しても、信じたことのないナアマンは信じられなくても仕方がないと、部下の助言がありました。結果、ナアマンはエリシャの言葉通り、ヨルダン川で身を洗い、癒されました。<br />
ここから分かることは何でしょうか。神様は、わたしたちが自分の無力を認め、神様に頼ること、信頼することを求めておられます。そして、わたしたちの前には、わたしたちの罪のために十字架で死なれ、復活されたイエス様が示されています。この方は、死に打ち勝った方です。私たちが死の問題に直面しても、神様には死を打ち破る力があることを知ることができます。私たちはみな死にます。しかし、神様は死に勝つことができる方です。<br />
ナアマンがエリシャの言葉にゆだねて癒されたように、力ある神様に信頼して、死の解決をなされますよう心からお勧めいたします。Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-45214558257118109912018-03-11T18:00:00.000+09:002018-03-12T10:14:17.580+09:002018/3/11 福音集会 みなさんこんばんは。3月も半分ほど過ぎ、新年度に向かっている今日この頃ですが、どの様にお過ごしでしょうか🌸。寒暖差の激しい日が続きますのでお身体にお気を付けください💪。<br />
<br />
<br />
さて、今日の福音集会ではお二人の方がメッセージをしてくださいました。神様に立ちかえることと、神の国に入ることとをテーマに話していただきました。私も神様との関係について覚えさせられました👀<br />
<br />
使徒の働きの17章16節から34節では、パウロという伝道者がアテネの人びとに福音を伝えた記事が載っています。そこでパウロは「イエスキリストの復活」について述べ伝えました。アテネの人たちは毎日、新しいことを聞いて過ごしていましたので、興味をもっていました👂。しかし、話を聞き終わると、「死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑い、他の者たちは、『このことについては、またいつか聞くことにしよう』と言った」のです(使徒17:32)。<br />
なぜでしょうか?それは、パウロが知識だけ、頭の中におさまる話だけをしたのではなく、アテネの人たちの生き方を変える話、創造主なる神とその神の裁きについての話をしたからです。神様が人と関係を持ちたいと願っておられる、拒んでいる罪がやがて裁かれるということです。これを聞いたアテネ人は去っていったのです。<br />
<br />
さきにみたアテネ人のように、自分の人生は自分でコントロールしたい、生き方を変えられるのは嫌だと感じます。しかし、イエス様もその弟子たちも語ったことは、「神の国が近づいた」ということです。私たちが神様にゆだねるとき、私たちのうちに神様の支配があるのです❗<br />
<br />
ここで、復活されたイエス様が言われた言葉を思い出しましょう。<br />
<b>「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」</b><br />
<div style="text-align: right;">
<b>(マタイ28:18)</b></div>
この言葉から王の王である方、主の主なる方がイエス・キリストであるということが分かります。私たちが認めようが認めまいが、王である方は変わらないのです。<br />
<br />
ここまで神様との関係について考えられたことがあると思います。神様は私たちと生きた関係を持ちたいと願っておられます。<br />
私たちが神様に立ちかえることができるように、イエス様を遣わしてくださったのです。私たちは、自分の罪のために死なれ、葬られ、よみがえらされたイエス・キリストを信じることで、神様との生きた関係に入れられるのです💓<br />
<br />
みなさんの人生の主はだれでしょうか?すべてを神様にゆだね、神様との生きた関係の中で歩まれますよう強くお勧めいたします。<br />
<br />
<div style="text-align: center;">
<b>「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。</b></div>
<div style="text-align: center;">
<b>わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」</b></div>
<div style="text-align: center;">
<b>(ヨハネの福音書14章6節)</b></div>
Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-2833611855573011222018-02-04T16:00:00.000+09:002018-02-11T16:23:02.193+09:002018/02/04 福音集会今日の福音集会では「備え」というテーマでお話がありました。<br />
<br />
「終活」という言葉があります。身辺整理や遺言などに関することですが、それらはすべてこの世に関することです。<br />
聖書にはこんな言葉が書かれています。<br />
<br />
<div style="text-align: start;">
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">「<b>イスラエル、</b></span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><b>あなたはあなたの神に会う備えをせよ。</b>」アモス4章12節</span></div>
<div style="text-align: start;">
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">「</span><b><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">祝宴の家に行くよりは、</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">喪中の家に行くほうがよい。</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">そこには、すべての人の終わりがあり、</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">生きている者が</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">それを心に留めるようになるからだ。</span></b><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">」伝道者の書7章2節</span></div>
<div style="text-align: start;">
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br /></span></div>
<div style="text-align: start;">
私たちの本当の終活は神様に会う備えです。人の終わりに心を留めることは大切であると聖書は語っているのです。</div>
<div style="text-align: start;">
<br /></div>
<div style="text-align: start;">
ルカの福音書16章19-31節にはこんな記事があります。</div>
<div style="text-align: start;">
「<b><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">ある金持ちがいた。いつも紫の衣や細布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">ところが、その門前にラザロという全身おできの貧しい人が寝ていて、</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">金持ちの食卓から落ちる物で腹を満たしたいと思っていた。犬もやって来ては、彼のおできをなめていた。</span></b></div>
<div style="text-align: start;">
<b><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;"> さて、この貧しい人は死んで、御使いたちによってアブラハムのふところに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">その金持ちは、ハデスで苦しみながら目を上げると、アブラハムが、はるかかなたに見えた。しかも、そのふところにラザロが見えた。</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">彼は叫んで言った。『父アブラハムさま。私をあわれんでください。ラザロが指先を水に浸して私の舌を冷やすように、ラザロをよこしてください。私はこの炎の中で、苦しくてたまりません。』</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">アブラハムは言った。『子よ。思い出してみなさい。おまえは生きている間、良い物を受け、ラザロは生きている間、悪い物を受けていました。しかし、今ここで彼は慰められ、おまえは苦しみもだえているのです。</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">そればかりでなく、私たちとおまえたちの間には、大きな淵があります。ここからそちらへ渡ろうとしても、渡れないし、そこからこちらへ越えて来ることもできないのです。』</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">彼は言った。『父よ。ではお願いです。ラザロを私の父の家に送ってください。</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">私には兄弟が五人ありますが、彼らまでこんな苦しみの場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">しかしアブラハムは言った。『彼らには、モーセと預言者があります。その言うことを聞くべきです。』</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">彼は言った。『いいえ、父アブラハム。もし、だれかが死んだ者の中から彼らのところに行ってやったら、彼らは悔い改めるに違いありません。』</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">アブラハムは彼に言った。『もしモーセと預言者との教えに耳を傾けないのなら、たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。』」</span></b>」</div>
<div style="text-align: start;">
<br /></div>
<div style="text-align: start;">
地上ではラザロと金持ちは全く違った生活をしていました。しかし、この地上での状況は違っていてもみな同じように死を迎えます。</div>
<div style="text-align: start;">
ラザロはユダヤ人にとって信仰の父であるアブラハムのいるところ、つまり神様のもとへ連れていかれました。</div>
<div style="text-align: start;">
<br /></div>
<div style="text-align: start;">
この記事から三つのことが考えられます。</div>
<div style="text-align: start;">
①死は終わりではない</div>
<div style="text-align: start;">
金持ちが死後行った場所には感情も意識も苦しみの感覚もありますが、財産や社会的地位はついてきませんでした。この世のもので死後を保障するものは何もないのです。</div>
<div style="text-align: start;">
<br /></div>
<div style="text-align: start;">
ここで聖書が語るのは、裕福そのものが悪いことであるということではありません。与えられたものそれ自体ではなく、それをどう管理していたかが問われるのです。</div>
<div style="text-align: start;">
<br /></div>
<div style="text-align: start;">
②二つの行き先があるが、互いに行き来できない</div>
<div style="text-align: start;">
金持ちの五人の兄弟たちに「モーセと預言者」、つまり聖書が備えられているように、私たちには今すでに神様の備えがあるのです。私たちはその神様の言葉に聞き従う必要があります。</div>
<div style="text-align: start;">
<br /></div>
<div style="text-align: start;">
③死後のことは聖書に従ったかどうかで決まる</div>
<div style="text-align: start;">
コリント人への手紙第二5章21節から6章2節にはこう書かれてあります。</div>
<div style="text-align: start;">
<span style="-webkit-line-break: after-white-space; -webkit-nbsp-mode: space; background-color: rgba(255, 255, 255, 0); overflow: auto; word-wrap: break-word;">「<b>神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるため</b></span><b><span style="-webkit-line-break: after-white-space; -webkit-nbsp-mode: space; -webkit-tap-highlight-color: rgba(0, 0, 0, 0); background-color: rgba(255, 255, 255, 0); color: #212121; font-family: HiraKakuProN-W3; font-size: 16px; overflow: auto; word-wrap: break-word;">です。</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">私たちは神とともに働く者として、あなたがたに懇願します。神の恵みをむだに受けないようにしてください。</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">神は言われます。</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">「わたしは、恵みの時にあなたに答え、</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">救いの日にあなたを助けた。」</span></b><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;"><b>確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。</b>」</span></div>
<div style="text-align: start;">
神様は完全な備えをして私たちを待っていてくださいます。「神に会う備え」とは神様の備えを受け入れることです。神様が一方的な恵みである救いを用意して待っていてくださっているということを、私たちが信じて受け入れることなのです。</div>
<div style="text-align: start;">
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br /></span></div>
<br />Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-11129261417952953142018-01-14T16:00:00.000+09:002018-02-11T15:55:19.947+09:002018/1/14 福音集会こんにちは!<br />
寒い日が続いていますが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。<br />
<br />
今日の福音集会ではルカの福音書19章1-10節が開かれました。<br />
エルサレムに向かう途中のイエスさまが、エリコという町を通られたときのことが書かれています。<br />
<br />
<b>それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」</b><br />
<b><br /></b>
①ザアカイはイエスさまを見たい一心でプライドを捨て、木に登りました。そしてイエスさまは、そんなザアカイの「下」に来てくださったのです。イエスさまは神様である方ですが、人に仕えるためにこの世界に来てくださいました。私たちはここからイエスさまの謙遜を見ることができます。<br />
<br />
②イエスさまは十字架に架かられるためエルサレムに向かわれていましたが、その途中でこのエリコに立ち寄られました。イエスさまがザアカイに会うのはこの日だけだったのです。イエスさまはザアカイのために「きょう」という日を備えてくださっていました。<br />
<br />
③イエスさまの「あなたの家に泊まることにしてあるから」という言葉は、別の翻訳では「泊まらなければならない」という意味になります。他の人々はイエスさまを受け入れたザアカイを見てつぶやいていましたが、ザアカイは大喜びでイエスさまを迎えました。<br />
<br />
神様は私たちの弱さも含め、すべて受け入れてくださる方です。また、ザアカイに備えられた日があったように、私たちにも神様が備えてくださっている「きょう」という期間があるのです。そして、ザアカイは周りの人たちのつぶやきを気にすることなく、自分を受け入れてくださるイエスさまを、すぐに喜んで迎え入れました。<br />
<br />
イエスさまは「<b>人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです</b>」と言われましたが、そこにはザアカイだけでなく私たち一人ひとりが含まれています。<br />
みなさんもザアカイのように、「きょう」イエスさまを救い主として信じ、受け入れませんか。<br />
<br />
<br />Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-60978382127850023402018-01-07T10:47:00.000+09:002018-01-22T10:50:44.387+09:002018/1/7 福音集会<br />
<h2 style="margin: 0px;">
あけましておめでとうございます。</h2>
<div style="margin: 0px;">
みなさまは昨年末どのような一年だったでしょうか?2018年の抱負はおありでしょうか?皆様の一年に神様からの祝福がありますようお祈りいたします。</div>
<div style="margin: 0px;">
昨年末、ブログの更新は滞ってしまいましたが、今年もみことばをお分かちしていきたいと思いますのでよろしくお願いいたします。</div>
<div style="margin: 0px;">
<br /></div>
<div style="margin: 0px;">
さて、</div>
<div style="margin: 0px;">
今日は新年のはじめ、神が人を創造された箇所、創世記の1章が開かれました。</div>
<div style="margin: 0px;">
<br /></div>
<div style="margin: 0px; text-align: center;">
<b>「神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。『生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべてのものを生き物を支配せよ。』」</b></div>
<div style="margin: 0px; text-align: center;">
<b>(創世記1:28)</b></div>
<div style="margin: 0px;">
<b><br /></b></div>
<div style="margin: 0px;">
このように神に祝福されて生まれた、いのちをいただいた人間は神から離れ、神を知らないものとなりました。私たちは神様を知らないで生きるものとなりました。しかし、そのままではどうなるでしょうか?私たちは死ぬものとなりました。神を無視したままではいけないのです。</div>
<div style="margin: 0px;">
<br /></div>
<div style="margin: 0px;">
しかし、神様は私たちにイエスキリストを与えてくださいました。この方は「<u>世の罪を取り除く神の小羊</u>」(ヨハネ1:29)であります。この方の犠牲によって、私たちは罪赦されるのです。</div>
<div style="margin: 0px;">
<br /></div>
<div style="margin: 0px; text-align: center;">
<b>「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」</b></div>
<div style="margin: 0px; text-align: center;">
<b>(黙示録22:13・14)</b></div>
<div style="margin: 0px;">
<b><br /></b></div>
<div style="margin: 0px;">
私たちは神を無視して生きていればその報いがあります。しかし、神は、イエス様を与えてくださいました。この方に信頼するなら失望させられることはありません。報いを携えてこられるとき、この方をほめたたえる喜びの日が必ず来ます。私たちの人生はこの方あってのものであります。</div>
<div style="margin: 0px;">
新しい一年をどうかこの方に信頼して歩む方となられますように。</div>
Unknownnoreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-86116742592995536732017-11-04T17:00:00.000+09:002017-12-03T13:42:52.225+09:002017/11/04 ピクニック<br />
<div style="clear: left; float: left; margin-bottom: 1em; margin-right: 1em;">
</div>
<br />
こんにちは^^<br />
11月4日、中高生クラスと日曜学校(小学生以下の子供たち)のイベントがありました♪<br />
サンドウィッチを皆で作り、河川敷でピクニックをしました^0^<br />
<br />
お昼ご飯の後、皆で聖書のお話を聞きました!<br />
韓国からお越しくださった、沈さんが中高生にはヨハネ3章16節から神様のことをお話してくださり、日曜学校のみんなは紙芝居から聖書のお話を聞きました。<br />
<br />
途中で雨が降り、一旦集会所に戻りましたが、その後も公園で遊ぶことができ楽しい時間を過ごしました〜^^*皆で素敵な時間を過ごせて感謝でした♩<br />
<br />
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://1.bp.blogspot.com/-yTNNzP6pIiw/WiOAbVeb1BI/AAAAAAAAIVk/QEGxeH-4a08sl15v6TDr9pIztCXRCw7JACLcBGAs/s1600/securedownload%2B%25281%2529.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1044" data-original-width="1568" height="266" src="https://1.bp.blogspot.com/-yTNNzP6pIiw/WiOAbVeb1BI/AAAAAAAAIVk/QEGxeH-4a08sl15v6TDr9pIztCXRCw7JACLcBGAs/s400/securedownload%2B%25281%2529.jpg" width="400" /></a></div>
<br />
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<a href="https://4.bp.blogspot.com/-OjkvnHPwpLg/WiOAfS0r_6I/AAAAAAAAIVo/wiijDamiuPYTZxr55aESKPmEKEDyBRFtQCLcBGAs/s1600/securedownload%2B%25282%2529.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1044" data-original-width="1568" height="266" src="https://4.bp.blogspot.com/-OjkvnHPwpLg/WiOAfS0r_6I/AAAAAAAAIVo/wiijDamiuPYTZxr55aESKPmEKEDyBRFtQCLcBGAs/s400/securedownload%2B%25282%2529.jpg" width="400" /></a></div>
<br />Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-52517095476522895382017-10-18T12:20:00.001+09:002017-10-18T12:20:29.901+09:002017/10/15 福音集会 こんにちは。今週は秋雨前線のせいで雨ばかりの一週間になりそうです🌂こんな雨の日には外に出るのが億劫になりますが、逆に家で温かくして聖書を読むととても幸せな気分にもなりますね☕<br />
今日のおはなしでは、神様が人間の滅びを望んでおられないということがテーマでした。神様は私たちの滅びではなく、悔い改めて救われることを望んでいてくださる。なんと感謝なことでしょうか。このブログでは、その中にあった「聖書にある3つの死」についてのことをお分かちしたいと思います。<br />
<br />
<h3>
3つの死</h3>
さて、3つの死と言われたとき、どのようにイメージされるでしょうか?それらは、①肉体の死、②霊的な死、③永遠の滅び、と紹介されました。ひとつずつご説明します。<br />
<br />
<b>①肉体の死</b><br />
肉体の死とは、普段「○○さんが亡くなられた」という時に使う「死」のことです。「死」とは分離を表す言葉だそうです。肉体の死とは、肉体と魂の分離のことですね。これは、イメージしやすいのではないでしょうか。<br />
<b><br /></b>
<b>②霊的な死</b><br />
さきほどの分離という言葉を使うならば、霊的な死とは、肉体は生きていても、霊が神様と分離している状態ということです。これを、ドローンを例におはなしくださいました。ドローンは機体は動いていても、電波を受信できなければどこに飛んでいくかわからないですよね。機体そのものは生きている、けれども電波を受け取れない、操縦する人と分離してしまう。これが霊的な分離の良い例ですね。<br />
また、ルカの福音書15章には放蕩息子の例えという話があります。ここでは、父親の相続財産を生きているうちにもらい、街に出て放蕩する弟息子が登場します。彼は、お金が無くなりどうしようもなくなった末に、父のもとに帰ることを決意します。帰ってきた息子を父は大喜びで迎えます。その時に父が言った言葉がこれです。<br />
<div style="text-align: center;">
<b>「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが</b><br />
<b>見つかったのだから。」(ルカの福音書15章24節)</b></div>
父にとって街で楽しんでいた息子は、父と離れていて死んでいた、かえって生きた息子は、どれだけボロボロでも生き返ったと言われたのです。これはまさに、私たちと父なる神様との関係そのものですね。私たちが神様と離れていることが霊的な死なのです。<br />
<br />
③永遠の滅び<br />
では、永遠の滅びとは何でしょうか。これは、永遠に神様とはなれるということです。黙示録20章にはいのちの書に名前のない者は永遠の滅び、神様との永遠の分離、が待っているとあります。すなわち、霊的に死んでいる人が、肉体の死を迎えると、永遠の滅びにはいっていしまうということです。しかし、神様ご自身が、私たちを永遠の滅びから救いたい、失いたくないと思ってくださるということは、なんということでしょうか。<br />
<br />
今回は「死」のことについて記事を書きましたが、「死」について考えると「いのち」のことを考えることにもつながりますね。永遠の滅びに向かう私たちに永遠のいのちを与えてくださったのが神様の恵みであるとは本当に感謝なことです。肉体の死はいつか訪れるでしょう。どうか早い日に永遠のいのちを受け取ることができますように💗Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-14953539392946535522017-09-24T15:30:00.000+09:002017-10-17T18:24:43.856+09:002017/9/24 福音集会 最近は昼は暑いのに朝夕は冷え込むという厄介な気候ですね。<br />
私は毎日脱いだり着たりをして温度調節していますが、みなさまも体調に気を付けてください💪<br />
さて、今日も聖書からのメッセージを紹介したいと思います📖<br />
<br />
<h3>
出エジプト記に出てくる奴隷の話</h3>
<div>
出エジプト記の21章には奴隷についてのルールが書かれています。そこでは、へブル人の奴隷は7年目には自由の身で去ることができるとあります。そして、主人が奴隷に妻を与えた場合、7年目に去ることができるのは奴隷だけであり、奴隷の家族は主人のものとなるのでした。</div>
<div>
しかし、「私は、私の主人と、私の妻と、私の子どもたちを愛しています。自由の身となって去りたくありません。」と言うなら、主人は奴隷の耳をキリで刺し通し、彼は家族とともにいつまでも主人のもとにいれるのです👪</div>
<div>
奴隷は自分自身で痛みを負い、自ら犠牲となることで、愛する家族といつまでもともにいることができるのでした💓</div>
<div>
この記事から、家族の愛やつながりが本当に素晴らしいと感じます。また、この記事からはイエス・キリストのことを考えることもできます。<br />
<br /></div>
<div>
<h3>
イエス・キリストの犠牲</h3>
</div>
<div>
イエス・キリストは十字架にかかりました。では、なぜ十字架にかかったのでしょう?彼はその生涯で悪いことをするどころか、良いことだけをして生きていかれました。彼に罪を認める者はおらず、神様も「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ。」と言われました。<br />
<br />
<div style="-webkit-text-stroke-width: 0px; color: black; font-family: Meiryo; font-size: medium; font-style: normal; font-variant-caps: normal; font-variant-ligatures: normal; font-weight: normal; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: start; text-decoration-color: initial; text-decoration-style: initial; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px;">
</div>
<br />
<div style="-webkit-text-stroke-width: 0px; color: black; font-family: Meiryo; font-size: medium; font-style: normal; font-variant-caps: normal; font-variant-ligatures: normal; font-weight: normal; letter-spacing: normal; orphans: 2; text-align: start; text-decoration-color: initial; text-decoration-style: initial; text-indent: 0px; text-transform: none; white-space: normal; widows: 2; word-spacing: 0px;">
<div style="margin: 0px; text-align: center;">
<b>「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、</b><b>よみがえられたからです。」ローマ人への手紙4章25節</b></div>
<div style="margin: 0px; text-align: left;">
<br />
私たちはみな死にます。それは罪のためだと聖書は語ります。すなわち、私たちはみな罪があるということです😰この罪を解決するすべを私たちは持っていません。それはあまりにも莫大なのです。</div>
<div style="margin: 0px; text-align: left;">
それゆえ、イエス・キリストはこの罪のために、身代わりになって十字架にかかってくださったのです。一点の罪もないお方が、罪の負債をすべて負って払ってくださった。これが十字架の死なのです💓💓</div>
<div style="margin: 0px; text-align: left;">
このイエス・キリストにありがとうございますと言って罪の赦しを受け入れるだけでよいということなのです。死への不安も裁きの恐怖も必要ありません。罪の解決は、イエス・キリストがしてくださったというのです❗❗❗<br />
<br /></div>
</div>
<h3>
おわりに</h3>
</div>
<div>
先日、私の集会でも家族合同の追悼記念会というものをしました。ともに死について考える機会を持てました。私たちは必ず死にます。イエス・キリストによる赦しはとても感謝なことです。死んだ後に行く先は神様のところと決まっています。どうかこのイエス・キリストのくださった救いを受けられますようにお勧めします。</div>
Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-27323136076475743552017-09-10T16:00:00.000+09:002017-09-24T14:04:44.302+09:002017/9/10 福音集会こんにちは!だんだんと涼しい日が多くなり秋が近づいてきましたね。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://2.bp.blogspot.com/-3A-atnK5iqs/Wcc2eojx7WI/AAAAAAAAHnE/q0f0ToBMjEwhjRsqfOwuxqNQMSCyAlipwCLcBGAs/s1600/securedownload.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1600" height="320" src="https://2.bp.blogspot.com/-3A-atnK5iqs/Wcc2eojx7WI/AAAAAAAAHnE/q0f0ToBMjEwhjRsqfOwuxqNQMSCyAlipwCLcBGAs/s320/securedownload.jpg" width="320" /></a></div>
<br />
今日も福音集会で語られたメッセージの一部をご紹介します。<br />
<br />
聖書には、神様を信頼する人は死んだあと、神様がおられる世界へ行くことができるということが書かれています。<br />
ではこの世界は神様を信じるための“猶予期間”なのでしょうか。<br />
実はそうではないのです。<br />
神様を信じた人にとってこの世は天国へ行くための待合室となるのではありません。<br />
<br />
例えばフライパンについて考えてみましょう。<br />
フライパンはフライパン自身のために存在するのではなく、それを使う人のために存在します。<br />
フライパンの存在の目的はそれを作った人が作る前から決めているのであり、フライパン自身が決めるのではありません。<br />
フライパンを食器として使ったとすると、取っ手が邪魔で、見た目も良くありません。<br />
しかしフライパンをフライパンとして使ったとき、それは存在の目的を果たし、それを作った人がほめたたえられるのです。<br />
<br />
私たちも私たちを創られた神様の目的のために存在しているのです。<br />
<b>「主はすべてのものを、ご自分の目的のために造り、…」箴言16章4節</b><br />
<b><br /></b>
私たちは自分がどう生きるかではなく、神様が私たちをどう生かそうとされているのか、神様が私たちに与えられる計画について知らなければならないのです。<br />
<br />
<b>「<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。</span>」コリント人への手紙第二5章15節</b><br />
<br />
私たちが自分自身のためにではなく、神様のために生きるようになるために、神様はイエス様をささげられました。<br />
<br />
私たちは神様の性質に似せて創られました。<br />
神様を愛し、また人を愛するものとして創られたのです。<br />
<br />
しかし罪によりそれは崩れ、ねたみや争いや支配という関係が生まれました。<br />
<br />
私たちのためにイエス様を犠牲にされたその神様の愛を知り、その愛を受けとることで、私たちは再び神様を愛し、人を愛するものへと変えられていくのです。<br />
<br />
<b>「<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。</span><span style="text-align: -webkit-auto;">」コリント人への手紙第二12章9-10節</span></b><br />
<br />
私たちには弱さがありますが、その弱さを通して神様の素晴らしさがあらわされることがあるのです。<br />
神様は弱さをもったままの私たちを選ばれる方です。<br />
あなたも弱いまま、そのままの状態で神様のもとへ飛び込んでみませんか?<br />
<br />
<br />
<br />
<br />
<br />Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-74740166724236714642017-09-03T16:29:00.000+09:002017-09-10T16:29:46.830+09:002017/09/03 福音集会<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";"><br /></span>
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">夏の怪談話のひとつに、番長皿屋敷というお話があります。</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">大事な皿を一枚割ってしまい、死んだ女が化けて出て、皿を「一枚、二枚...」と数えていきますが、「八枚、九枚...一枚足りない。うらめしや...。」</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">と言うお話です。</span><br />
<br style="background-color: white; color: #454545; font-family: "MS UI Gothic", Osaka, Arial, sans-serif !important;" />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">これによく似た話が、実は聖書にも出てきます。</span><br />
<br style="background-color: white; color: #454545; font-family: "MS UI Gothic", Osaka, Arial, sans-serif !important;" />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">一枚の銀貨を失くした女の話です。</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">皿屋敷の話と同じように、この女は10枚の銀貨を持っていましたが、最後の一枚を失くしてしまいました。</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">しかし皿屋敷とは違い、最後には銀貨を見つけ、さらに近所の人たちを呼んで「一緒に喜んでください。」と言って終わります。ハッピーエンドです。</span><br />
<br style="background-color: white; color: #454545; font-family: "MS UI Gothic", Osaka, Arial, sans-serif !important;" />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">この話は、イエス・キリストが話した例え話です。</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">なくなった銀貨とはなんでしょう。</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">それは、私達人間です。</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">神様にとって、私たちは失われた存在なのです。</span><br />
<br style="background-color: white; color: #454545; font-family: "MS UI Gothic", Osaka, Arial, sans-serif !important;" />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">どのように神様は失われた私たちを得ることができるのでしょうか。</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">それは、神の御子イエス・キリストの十字架という犠牲によってです。</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">そして私たちは自分の罪を認め、自分の思いを神様の前に吐き出し、神様の方に心を向ける必要があります。</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">その時に、失われた銀貨である私たちは、主人のもとに戻ることができ、主人である神様はそのことを喜んでくださいます。</span><br />
<br style="background-color: white; color: #454545; font-family: "MS UI Gothic", Osaka, Arial, sans-serif !important;" />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">コリントⅡ5章17節</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、全てが新しくなりました。</span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-31030989562065034892017-08-27T15:53:00.000+09:002017-10-05T15:54:36.581+09:002017/8/27 福音集会8月も最後の日曜日となりました。みなさまいかがお過ごしですか。<br />
本日の福音集会ではゲストをお呼びして、『聖書が語るいのちの水』と題してメッセージをいただきました。このブログで少し分かち合いたいと思います。<br />
今日のお話では、イエス様とサマリヤ人の女性との記事から、神様からの救いについて考えることができました。<br />
<br />
<h3>
サマリヤの女</h3>
ヨハネの福音書4章1節から42節にサマリヤ人女性の記事が記されています。この記事ではイエス様はのどが渇いて、水を汲んでいるサマリヤの女性に水を求められました。当時、ユダヤ人とサマリヤ人は付き合いをしませんでしたが、これを契機にイエス様とサマリヤ人女性との物語が始まります。<br />
<div style="text-align: center;">
<b>「イエスは答えて言われた。『この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。』」</b></div>
<div style="text-align: center;">
<b>(ヨハネの福音書4章14節)</b></div>
<div style="text-align: left;">
さて、この言葉はサマリヤ人女性にイエス様が飲み水を求めた後、イエス様が「わたしは生ける水を与える」と言われました。それに対して、「あなたは汲むものを持っていないのに、どうやってその水を手に入れるのか」とサマリヤ人女性が尋ねたことへのイエス様の答えです。「この水」とは井戸から汲んで手に入れる水です。もちろん飲んでもまた渇きます。イエス様は渇かない水を与えると言われたのです。ここには、象徴的な意味が含まれています。「この水」とは人間的な方法によって救いを求めることであり、一時的な解決こそあれ、それは一時的であり、また渇くのです。イエス様が与える救いは、永遠のいのちであるということです。</div>
<div style="text-align: center;">
サマリヤの女性は渇くことのない水を求めました。彼女はわき出る水が何かよくわかっていませんでしたが、これはとても幸いなことです。この女性はふしだらな生活をしていました。イエス様はそのことを言い当て、彼女の生活に迫りました。この女性は人間の愛を求め、それを人生の目的のようにしていました。これが彼女にとっての「この水」だったのです。それをイエス様は明らかにされました。彼女は何度も渇いて、5人の夫を持ち、現在は夫でないものと同棲していました。</div>
<div style="text-align: center;">
<b>「女はイエスに言った。『私は、キリストと呼ばれるメシヤの来られることを知っています。その方が来られるときには、いっさいのことを私たちに知らせてくださるでしょう。』イエスは言われた。『あなたと話しているこのわたしがそれです。』」</b></div>
<div style="text-align: center;">
<b>(ヨハネの福音書4章25節26節)</b></div>
<div style="text-align: left;">
彼女はキリストと出合いました。彼女は急いで町へ行って、キリストのことを町の人に伝えました。彼女はそれまで人間の愛を求めては渇きを繰り返していました。しかし、キリストと出合って、価値観が変わったのです。</div>
<br />
<h3>
私たちにとっての水</h3>
私たちはどうでしょうか?毎日渇く水を飲んで渇きを繰り返す生活でしょうか?イエス様は「わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません」と言われました。<br />
<div style="text-align: center;">
<b>「イエスは立って、大声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」</b></div>
<div style="text-align: center;">
<b>(ヨハネの福音書7章37節38節)</b></div>
<div style="text-align: center;">
<br /></div>
私たちはイエス様を信じることによってこの生ける水をいただけます。罪からの救いはこの方にあるのです。決してこの世の人間の考えた方法にはよらないのです。このサマリヤ人の女性のように、イエス様を信じることによって与えられる救いを受け取られますようお勧めいたします。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-13002658937105394582017-08-20T16:43:00.000+09:002017-09-03T13:54:43.144+09:002017/8/20 福音集会今日は「小さきものにも目を留めてくださる神様」というテーマでお話がありました。<br />
<br />
聖書に書かれた神様はどんな方でしょうか。<br />
人間が創った神様ではなく、人間を創られた神様です。<br />
<br />
私たちの想像力をいくら働かせても、神様の真実を知ることはできません。<br />
しかし神様ご自身が私たちに語ってくださっているのです。<br />
<br />
私たちは何かを学ぶとき、それを理解したあとで行動に移すと思いますが、聖書の神様を知るには順番が少し違っています。<br />
まず聞くこと、そして信じて従い、理解するのです。<br />
<br />
ヘブル人への手紙11章6節にはこう書かれています。<br />
<span style="-webkit-line-break: after-white-space; -webkit-nbsp-mode: space; background-color: rgba(255, 255, 255, 0); overflow: auto; word-wrap: break-word;"><b>「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。」</b></span><br />
私たちが神様に何かを求めるのではなく、神様ご自身を求める必要があるのです。<br />
「信じて従う」とは、キリストを救い主として受け入れるということです。<br />
<br />
今日はメッセンジャーのNさんがご自身のお母さんの目線からお話をしてくださいました。<br />
クリスチャンとして神様に導かれて歩んでこられましたが、困難や試練もたくさんあったそうです。<br />
そんな人生を今振り返って思うことは、神様の恵みはいつも十分であったということと、神様はすべてを益としてくださる方であるということをおっしゃっているそうです。<br />
<br />
ルカの福音書12章6節にはこう書かれています。<br />
<b>「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前に忘れられてはいません。」</b><br />
1アサリオンというのは300円くらいだそうですが、ここでは雀が大切だと教えているのではなく、雀よりも私たちは尊い存在だということを教えているのです。<br />
神様は私たち一人一人のことを覚えていてくださるお方です。<br />
<br />
私たちがするべきことは何でしょうか。<br />
ヨハネの福音書15章4節にはこうあります。<br />
<b>「<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。</span>」</b><br />
<br />
神様ご自身は私たちにこう言ってくださるのです!<br />
<b>「<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。</span>」</b>ヘブル人への手紙13章5節<br />
<br />Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-82575046436460613452017-08-13T16:26:00.000+09:002017-09-10T16:27:39.746+09:002017/08/13 福音集会<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
</div>
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://4.bp.blogspot.com/-oIttXOqJr3w/WbToerrVAoI/AAAAAAAAHHs/UHULOV889KYRhPCYsEVr0dQGg62GOpX9QCLcBGAs/s1600/%25E8%25AA%25B0%25E3%2581%25A7%25E3%2582%2582%25E6%25B8%2587%25E3%2581%2584%25E3%2581%25A6%25E3%2581%2584%25E3%2582%258B%25E3%2581%25AA%25E3%2582%2589.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1169" data-original-width="1600" height="291" src="https://4.bp.blogspot.com/-oIttXOqJr3w/WbToerrVAoI/AAAAAAAAHHs/UHULOV889KYRhPCYsEVr0dQGg62GOpX9QCLcBGAs/s400/%25E8%25AA%25B0%25E3%2581%25A7%25E3%2582%2582%25E6%25B8%2587%25E3%2581%2584%25E3%2581%25A6%25E3%2581%2584%25E3%2582%258B%25E3%2581%25AA%25E3%2582%2589.jpg" width="400" /></a></div>
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";"><br /></span>
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";"><br /></span>
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">こんにちは!</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">今日も、福音集会で開かれたみことばをご紹介します!</span><br />
<br style="background-color: white; color: #454545; font-family: "MS UI Gothic", Osaka, Arial, sans-serif !important;" />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">テーマは、「目が開かれる」です。</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">聖書には、2つの目が開かれる記事があります。</span><br />
<br style="background-color: white; color: #454545; font-family: "MS UI Gothic", Osaka, Arial, sans-serif !important;" />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">一つ目は、創世記です。</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";"><創世記3章7節></span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">このようにして、ふたりの目は開かれ、それで彼らは自分たちが裸であることを知った。</span><br />
<br style="background-color: white; color: #454545; font-family: "MS UI Gothic", Osaka, Arial, sans-serif !important;" />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">この箇所のふたりとは、最初の人アダムと、その妻エバです。</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">エバが蛇に唆されて、神様が食べてはいけないと命じた木の実を食べたあと、ふたりの「目が開かれた」のです。</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">何に対して目が開かれたのでしょうか。罪に対して目が開かれてしまいました。そして神様から体を隠そうとしますが、隠れることはできません。</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">それどころか、この世界の全てをご存知で、全ての場所におられる神様は、私達の見えない心の中までご存知です。</span><br />
<br style="background-color: white; color: #454545; font-family: "MS UI Gothic", Osaka, Arial, sans-serif !important;" />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">詩篇139篇1-4節</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">ことばが私の舌にのぼる前に、なんと主よ、あなたはそれをことごとく知っておられます。</span><br />
<br style="background-color: white; color: #454545; font-family: "MS UI Gothic", Osaka, Arial, sans-serif !important;" />
<br style="background-color: white; color: #454545; font-family: "MS UI Gothic", Osaka, Arial, sans-serif !important;" />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">二つ目は、ヨハネの福音書です。</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";"><ヨハネの福音書9章></span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">イエス様がつばきで泥をつくり、目に塗って、シロアムという、池で洗うように命じます。そして盲人がその通りにすると、見えなかった目が直り、目が開かれました。</span><br />
<br style="background-color: white; color: #454545; font-family: "MS UI Gothic", Osaka, Arial, sans-serif !important;" />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">この出来事によって、盲人は目が見えるようになります。肉体的な目が見えるようになっただけではなく、さらに霊の目が開かれ、この目を開いた人は、神から出ておられる方だと気づきます。</span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">そしてもう一度イエス様に会ったとき、イエス様は私が人の子(救い主)だと気付きます。</span><br />
<br style="background-color: white; color: #454545; font-family: "MS UI Gothic", Osaka, Arial, sans-serif !important;" />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";"><ヨハネ9章38節></span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">彼は言った。「主よ。私は信じます。」</span><br />
<br style="background-color: white; color: #454545; font-family: "MS UI Gothic", Osaka, Arial, sans-serif !important;" />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";"><ヘブル2章14,15節></span><br />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">そこで、子たちは皆、血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を開放してくださるためでした。</span><br />
<br style="background-color: white; color: #454545; font-family: "MS UI Gothic", Osaka, Arial, sans-serif !important;" />
<span style="background-color: white; color: #454545; font-family: "ms gothic";">イエスを信じる者は、死から開放され、天国に行けます。そこで神様とお会いでき、共におり、その方をもっとよく知ることができます。それはなんと幸せなことでしょうか!</span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-80574240714094953152017-08-06T22:35:00.000+09:002017-10-08T23:29:16.848+09:002017/8/6 福音集会 8月になりました。夏真っ盛りとなりましたが、みなさまお元気ですか?<br />
今日の福音集会では「希望」というテーマでお話がありましたので、少し紹介させていただきたいと思います。<br />
みなさまは希望を持っておられるでしょうか?何に希望を置いておられるでしょうか?希望とは何でしょうか?ぜひこの機会に考えていただけたらと思います。<br />
<br />
<h3>
「希望」について考える</h3>
町に出ると様々な「希望」があるそうです。hopeという銘柄やesperanzaという名前、みな「希望」という意味だそうです。政党のポスターにも「希望」という言葉が使われていますね。<br />
また、「希望は本来有というものでもなく、無というものでもない。」というのは『故郷』(魯迅)の最後の一節です。この言葉をどのように捉えるかはさておき、希望について考えられているということですね。このように、多かれ少なかれ私たちは希望を求めていると言えるのではないでしょうか。<br />
<h3>
希望まさに聖書にあり</h3>
<div>
ひるがえって聖書は希望の書と言えるのではないでしょうか?聖書には絶望の中にある人が希望を与えられるというエピソードが多く出てきます。まさに、希望の書と言えます。</div>
<div>
例えば、モーセという人物がいます。彼はエジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を率いて、エジプトから脱出をするのです。神様がモーセに言われた通り、モーセはエジプトを脱出しました。しかし、逃げた先には海があり、後ろからはエジプト軍の追手という絶体絶命の状態になってしまいます。そんな中、モーセは神様に信頼しました。すると、神様は海を退かせ、陸地とされました。イスラエルの民は陸地を進み逃げることができ、エジプトの追手から守られたのです。これはまさに神様の方法、絶体絶命の中で助けてくださる神様です。</div>
<div>
また、ヨシャパテ王という王様がいました。彼の国が強い外国から攻められた時、彼は次のように神様に言いました。「私たちに立ち向かって来たこのおびただしい大軍に当たる力は、私たちにはありません。私たちとしては、どうすればよいのかわかりません。ただ、あなたに私たちの目を注ぐのみです。」彼もまた、四面楚歌の状態で、ただ神様に信頼していました。彼の国民もみな神様に目を向け、神様が共に戦われたので、彼らの敵は打ち負かされました。それはまさに神様が戦われたのでした。ここにもまた、神様の希望があらわれています。</div>
<div style="text-align: center;">
<b>「わたしを呼べ。そうすれば、わたしは、あなたに答え、</b><b>あなたの知らない、</b></div>
<div style="text-align: center;">
<b>理解を越えた大いなる事を、あなたに告げよう。」(エレミヤ書33章3節)</b></div>
<div style="text-align: left;">
神様を呼び求める時、そこに希望があるということを教えられますね。</div>
<div>
</div>
<h3>
救いという希望</h3>
<div>
最後に、聖書の希望を考える以上、救いについて書かないわけにはいきませんね。</div>
<div style="text-align: center;">
<b>「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。</b><b>それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」</b></div>
<div style="text-align: center;">
<b>(ヨハネの福音書3章16節)</b></div>
<div style="text-align: left;">
<b> </b>私たちは自分勝手な罪人で、神様を知らない者でした。そこからは滅びを刈り取るしかない者です。それはまさに絶望、どうしようもない状態です。しかし、神様は救いをくださいました。それこそがイエス・キリストです。彼が十字架にかかってくださったのは私たちの罪のため、私たちの身代わりであったのです。彼の十字架によって、私たちのすべての罪がきよめられ、信じる者にはもれなく永遠のいのちが与えられるというのです。これこそ永遠の希望です。</div>
<div style="text-align: left;">
イエス・キリストと共に十字架につけられた犯罪人も、まさしく土壇場でイエス・キリストが救い主だと気が付きました。この犯罪人は「あなたはパラダイスにいます。」とイエス・キリストから告げられました。死刑執行中でも彼には希望が与えられたのですね。</div>
<div style="text-align: left;">
みなさまが聖書の与えてくれる希望を受け取られる方となられますように。</div>
Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-42063561523263510112017-07-30T16:29:00.000+09:002017-07-30T16:29:50.144+09:002017/7/30 福音集会今日の福音集会ではマタイの福音書14章22~33節が開かれました。<br />
<br />
イエス様の弟子たちだけで舟に乗り、湖の向こう岸へ渡っていましたが、夜中の3時頃湖の上を歩いて来られたイエス様を見て、弟子たちは幽霊ではないかと恐れます。<br />
しかしイエス様はすぐに弟子たちに「恐れることはない」と声をかけてくださいました。そしてこう続きます。<br />
<br />
<div style="text-align: justify;">
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<b><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">「すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">イエスは「来なさい」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください」と言った。</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です」と言った。」</span></b></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<b><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;"><br /></span></b></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">ここから5つのポイントについて考えました。</span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;"><br /></span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">①私たちが信じる神様は確かなお方です。</span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">私たちは人間関係の中で、相手が信頼できる人だと分かったときに心を開き、関係が一歩前進することがあると思います。</span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
その信頼する相手が確かな人であることが重要ですが、私たちは人間である以上、間違うことも失敗することもあります。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
しかし神様は確かなお方です。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
裏切ることも間違うこともなく、最善をなさる方です。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
私たちは神様に従っていれば間違うことはないのです。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<br /></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
②あなたが人生の暗闇を歩いているときも、神様はそのことをご存知です。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
弟子たちは真っ暗な中、小さな木の舟に乗り、風が吹いて波に悩まされ、不安と恐れでいっぱいだったでしょう。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
しかしそのときにイエス様は彼らを見捨てていたわけではありませんでした。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
自ら私たちのもとに近づいてきてくださるお方なのです。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<br /></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
③信仰は神様が用意されるのです。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
もう少し聖書が分かったら信じようとか、もう少し信仰をもつようになったらバプテスマを受けようなどと考えておられる方がいるかもしれません。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
私たちが湖の上を歩けないように、ペテロも歩けませんでした。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
しかし神様がペテロを歩かせてくださったのです。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
他の弟子たちは舟の中にとどまっていましたが、ペテロは一歩踏み出し、歩き出したことで神様の助けを体感できたのです。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
こんな小さな信仰では…と思うのではなく、一歩踏み出すことで神様を実感できることがあるのです。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<br /></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
④私たちは沈みかけているということに気が付く必要があります。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
ペテロは一気に沈んでしまったのではありませんでした。「沈みかけた」のです。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
そのときにペテロは自分の力で何とかしようとしたり、弟子たちに助けを求めたりはせず、イエス様に助けを求めました。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
今、私たちも沈みかけているのです。今こそ聖書について、また神様について考え、備えられた救いを受け取るときです。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
信仰を持てるのは私たちが生きている間だけなのです。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<br /></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
⑤イエス様は私たちの罪のために身代わりとして死んでくださいました。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">「もしあなたがたが、わたし(=イエス・キリスト)のことを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬのです。」ヨハネによる福音書8章24節</span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br /></span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
この「わたしのこと」は原文のギリシャ語では「エゴー・エイミ」と言い、神様の存在そのものを表す言葉として聖書で使われています。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
つまりこの文章は「私が神であることを信じなければ、あなたがたは自分の罪の中で死ぬ」と読めますし、反対に言えば「イエス・キリストが神であることを信じれば、私たちは生きる」と言えます。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<br /></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
イエス様は神である方なのに私たちの罪のために死なれたのです。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
そして私たちの罪が解決されていることを示すために復活されました。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<br /></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<b>「確かに、今は恵みの時、今は救いの日です。」</b>コリント人への手紙第二6章2節</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<br /></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
ぜひみなさんもイエス様を信じ従って歩まれることをお勧めします。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;"><br /></span></div>
</div>
Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-50845004725767976372017-07-23T17:04:00.001+09:002017-07-23T17:06:08.579+09:002017/7/23 福音集会<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">今日も、伝道集会で開かれたみことばをご紹介します。</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;"></span><br style="-webkit-text-size-adjust: auto; font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px;" />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">詩篇39篇4節</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">主よ。お知らせください。私の終わり、私の齢の終わりが、どれだけなのか。私が、どんなに、はかないかを知ることができますように。</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;"><7節>主よ。今、私は何を待ち望みましょう。私の望み、それはあなたです。</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;"></span><br style="-webkit-text-size-adjust: auto; font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px;" />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">この箇所から、2つのことがわかります。</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">ひとつは、人生は儚いものだが、人はそれに気づいていないということ、もう一つは人は神様のことを知るべきであるということです。</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;"></span><br style="-webkit-text-size-adjust: auto; font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px;" />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">神様は、唯一であり、生きておられ、この世界の創造主であり、霊的(人格を持った)存在です。</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;"></span><br style="-webkit-text-size-adjust: auto; font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px;" />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;"><ローマ人への手紙5章12節></span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が全人類に広がったのと同様に、ーそれというのも全人類が罪を犯したからです。</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;"></span><br style="-webkit-text-size-adjust: auto; font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px;" />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">とっさに考えなしにとった行動が、誰かにとって悪いことだったり、相手を傷つけることだったりしたことはありませんか?</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">人は誰でも、罪の性質があります。</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;"></span><br style="-webkit-text-size-adjust: auto; font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px;" />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">そんな罪人を、神様はお見捨てになることはしませんでした。</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">神の子であるイエス・キリストは、神が人を愛するがゆえに、十字架にかかり、私たちの罪の身代わりになってくださいました。</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;"></span><br style="-webkit-text-size-adjust: auto; font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px;" />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">この身代わりに、というのは、私が借金を負っているとして、ある大金持ちがそれを肩代わりして完済してくれる、というような状況に似ています。</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;"></span><br style="-webkit-text-size-adjust: auto; font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px;" />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">イエス・キリストは十字架で死んで葬られましたが、3日目によみがえりました。目撃者は数人の弟子だけでなく、500人以上いたと記述があります。数多くの証人がいたのです。</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;"></span><br style="-webkit-text-size-adjust: auto; font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px;" />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">イエス・キリストの十字架には、どんな意味があるのでしょうか。</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">科学技術が進歩して、人間そっくりの、いやそれ以上の知能を持つロボットが生まれるのも、現実味を帯びてきました。</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">そうなると、人間の価値は失われるのでしょうか?</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">いいえ、けっしてそんなことはありません。人間は、他の動物達とは違い、神様が霊的な存在として創造されたからです。神様は人を愛し、尊い存在としておられます。</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;"></span><br style="-webkit-text-size-adjust: auto; font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px;" />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;"><ピリピ人への手紙 3章20節></span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;"></span><br style="-webkit-text-size-adjust: auto; font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px;" />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">これらのことを信じた者たちの国籍は天にあります。地上の身体が死んだ後、天におられる神様のもとに帰れることを喜び、待ち望みながら地上の生活を歩んでいます。</span><br />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;"></span><br style="-webkit-text-size-adjust: auto; font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px;" />
<span style="font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">この喜びをともに味わい、待ち望む人生を歩みましょう!</span>Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-58033773936871033892017-07-02T17:00:00.000+09:002017-07-30T14:10:11.887+09:002017/7/2 福音集会今日は「信仰」というテーマでのお話がありました。<br />
<br />
信仰とは何でしょうか。<br />
それは神様を信頼することです。<br />
神様を愛することとも言えます。<br />
「信頼する」ということは強い人や大人だけができることなのではなく、むしろ弱く幼い子供の方ができることです。<br />
<br />
ローマ人への手紙10章17節にはこう書かれています。<br />
「信仰は聞くことから始まり、聞くことは、<b>キリスト</b>についてのみことばによるのです。」<br />
<br />
誰でも神様を信頼することはできますが、自分に語られているものとして聖書を読む必要があります。<br />
そして自分がどんな存在か理解するだけでなく、キリストについて知らなければなりません。<br />
<br />
キリストは何をされた方なのでしょう。<br />
聖書にはこうあります。<br />
<div style="text-align: justify;">
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">「私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。<b>キリストは、</b>聖書の示すとおりに、<b>私たちの罪のために死なれた</b>こと、</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">また、<b>葬られた</b>こと、また、聖書の示すとおりに、<b>三日目によみがえられた</b>こと、</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">また、ケパに現れ、それから十二弟子に<b>現れた</b>ことです。</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;">その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。」コリント人への手紙第一15章3~6節</span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0); text-align: -webkit-auto;"><br /></span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
聖書で以前から予告されていた通りにキリストは死なれ、死んだことが確認されたので葬られ、聖書で予告されていた通りによみがえられ、また現れたことが多くの人に確認されたのです。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
キリストの死と復活が明確な事実であるということが分かります。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<br /></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
神様との交わりがあることを聖書では「永遠のいのち<span style="text-align: -webkit-auto;">」と言いますが、神様との交わりが絶たれた状態は「死」なのです。</span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="text-align: -webkit-auto;"><br /></span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="text-align: -webkit-auto;">神様を神様とせず、代わりにお金や偶像などを神様のポジションに置いている私たちは霊的に死んだ状態の罪人なのです。</span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="text-align: -webkit-auto;"><br /></span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="text-align: -webkit-auto;"><b>「たましいの贖いしろは、高価であり、永久にあきらめなくてはならない」</b>と詩篇49篇8節にあります。</span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="text-align: -webkit-auto;"><br /></span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="text-align: -webkit-auto;">私たちは自分自身のいのちをかけても自分のいのちを取り戻すことはできません。</span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="text-align: -webkit-auto;">自分で自分の罪を処理することはできないのです。</span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="text-align: -webkit-auto;"><br /></span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="text-align: -webkit-auto;">しかし、そんな私たちのため、神様はキリストを罪そのものとして十字架で裁かれました。</span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="text-align: -webkit-auto;">私たちの犯した罪を赦すためであり、また罪という原理から私たちを解放するためでもあります。</span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<span style="text-align: -webkit-auto;"><br /></span></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
神様はキリストを信じる者をキリストと一つとして見られます。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
キリストが十字架で死んだとき、私たちも共に死に、キリストが復活されたとき、私たちも共に生かされるものとみなされるのです。</div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
<br /></div>
<div style="overflow: auto; text-align: -webkit-auto;">
あなたも神様を信頼し、神様の言葉に従い、神様の支配を自分のうちに受け入れ、神様によって生かされたものとして歩みませんか。</div>
</div>
Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-90775657132867003382017-06-25T16:32:00.000+09:002017-07-30T16:33:48.506+09:002017/6/25 特別伝道集会こんにちは!<br />
<br />
今日は、一日特別伝道集会で、栗本さんをお招きして、お話いただきました。<br />
語られた聖書のみことばを紹介します。<br />
<br />
本当の居場所というテーマでお話いただきました。<br />
財布を持っていたとしても、手元にないとジュース一本買えず、意味をなしません。適切な居場所はどんな物にもあります。<br />
人間も同じで、居場所がないと生きていけません。<br />
<br />
<ルカの福音書15章11節~><br />
イエス様がたとえ話をしている場面です。<br />
二人の息子がいましたが、弟は問題児でした。<br />
お父さんに、死んだ後にもらえる分の遺産を今くださいとせがみました。<br />
<br />
そのお金をもって、街を遊びあるきましたが、飢饉が起こり、お金もなくなり、やっと見つけた仕事は豚の世話でした。しかも、豚の餌さえ食べたくなるほど、惨めな状況になりました。<br />
<br />
そこで、父親にあやまり、許してもらうために帰ります。父親は許してやり、家に迎えます。ハッピーエンドの話です。でも、不可解なところが2つあります。このことはまた後述します。<br />
<br />
このたとえ話では、<br />
父親は、神様をなぞらえています。<br />
弟息子は、罪人である私たちの人間を表しています。<br />
<br />
この世界を作られたのは神様です。<br />
<br />
ローマ人への手紙1章20節<br />
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によってはっきりと認められるのであって...(略)<br />
<br />
<br />
神様は目に見えませんが、<br />
天体や、人間の身体のつくりをみるたびに、神の存在を知ることができます。<br />
<br />
神なんてを知らない、神なんていないと考えることは、一番の罪です。<br />
<br />
罪は、最初の人間、アダムとエバの時に世界に入りました。二人は神様のたった一つの命令を守ることが出来なかったのです。<br />
以来、人間には遺伝のように罪の性質が受け継がれて、神から離れる存在となってしまったのです。<br />
しかし、それは人間のあるべき姿ではありません。<br />
神様がアダムに、「あなたはどこにいるのか」と問うた通りです。<br />
<br />
さて、ルカの15章のたとえ話に戻ります。<br />
不可解な箇所があると述べましたが、20節にその箇所が出てきます。<br />
<br />
20節<br />
ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。<br />
<br />
①父はなぜか家から遠い場所にいた。<br />
<br />
なぜでしょう。それは、家で待っていたのではなく、近所を探すところから始まり、だんだん遠くへ、毎日毎日探し回っていたからに違いありません。<br />
<br />
②父親から息子に走り寄って行った<br />
<br />
当時のユダヤ人の父親像は昔の日本の親父像のようにどんと構えて、子供の方から走り寄っていく、というものでした。しかしこの父親は、喜びのあまり、息子に走り寄って行ったのです。<br />
<br />
この父親の姿から、神様が私たちをこのように愛してくださる方であることがわかります。<br />
そしてこの父親が息子を思うように、神様は私たちに帰ってきてほしいと願っておられます。<br />
<br />
ヨハネの福音書3章16節<br />
神は実にそのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものがひとりとして滅びることなく、永遠の命を持つためである。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-29917692417070402012017-06-18T16:00:00.000+09:002017-06-25T22:03:28.664+09:002017/06/18 福音集会集会所の前には素晴らしい紫陽花が咲き誇っています。<br />
<br />
<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://3.bp.blogspot.com/-9WpMP7FlYvk/WU89EXx7UoI/AAAAAAAAGak/l7Qlya7gXs0olhwx4R0g3AumuMmYVni1gCLcBGAs/s1600/securedownload.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1200" data-original-width="1600" height="240" src="https://3.bp.blogspot.com/-9WpMP7FlYvk/WU89EXx7UoI/AAAAAAAAGak/l7Qlya7gXs0olhwx4R0g3AumuMmYVni1gCLcBGAs/s320/securedownload.jpg" width="320" /></a></div>
<br />
今日は「十字架の言葉」というお話がありました。<br />
<br />
神様はこの世界を創られ、私たちにも命を与えてくださいました。<br />
しかし私たちは自分を生かしてくださっている方から離れ、自分勝手に生きています。<br />
<br />
神様から離れると不安になる私たち人間は、神様に代わるものを色々と作り出してきましたが、それらは不完全で不安定なものなので私たちも不安になります。<br />
<br />
自分で何とかして幸せになろうとすることを聖書では罪といいますが、その罪をもった私たちのために、神様はイエス様をこの世界に送られ、イエス様は十字架に架かってくださいました。<br />
<br />
イエス様が十字架上で語られた言葉は聖書に7つ記録されていますが、今日はそのうち3つが紹介されました。<br />
<br />
①<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」(ルカの福音書23章34節)</span><br />
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br /></span>
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">朝9時に十字架に架かれられたイエス様の最初の言葉ですので、イエス様の一番の願いであるということがわかります。</span><br />
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">聖書には人々がイエス様を十字架につけたことが描写されていますが、同時に別の観点からはイエス様が自ら進んで十字架に架かられたことが分かります。</span><br />
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">神様から離れて自分勝手に生きている私たちの罪を負い、私たちに代わって神様に赦しを求めてくださったのです。</span><br />
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br /></span>
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">②</span><span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイの福音書27章46節)</span><br />
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br /></span>
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">この日昼の12時から3時まで、全地が暗くなって真っ暗であったことが聖書に書かれています。</span><br />
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">人の目から隠されたこの3時間、神様から徹底的に裁かれたイエス様が語られた言葉なのです。</span><br />
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">神の子としてではなく、罪そのものとして神様の前に立たれて全ての罰を受けてくださったのです。</span><br />
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br /></span>
③イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。(ヨハネの福音書19章30節)<br />
<br />
「完了した」には「支払いが終わった」とか、「領収済みである」という意味があります。<br />
私たちの罪のための支払いはイエス様ご自身が完全に終えてくださっているのです。<br />
<br />
イエス様は十字架で死なれましたが、3日目に復活されました。<br />
今イエス様は私たちのそばにいてくださり、私たちに救いを受け入れるよう語ってくださっています。<br />
変わることのない完全なイエス様という土台があると、私たちは周囲の状況によらず、安定した人生を送ることができるのです。<br />
<br />
みなさんもぜひイエス様を自分の救い主であると信じ受け入れ、確かな人生を送りませんか?<br />
<br />
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);"><br /></span>
Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-46470809300504172332017-06-11T16:36:00.000+09:002017-07-30T16:37:11.399+09:002017/6/11 福音集会こんにちは!<br />
紫陽花の綺麗な季節になりましたね!<br />
<br />
今日も、伝道集会で語られた聖書の言葉をご紹介します。<br />
<br />
ヨハネの福音書12章24節から49節のイエス様が話された言葉が解説されました。<br />
<br />
23節<br />
まことに、まことにあなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。<br />
<br />
ここでは、イエス様は、ご自身を麦になぞらえてお話しされています。イエス様は私たちの罪を、ご自身が死ぬことによって贖うためにこの世に来られました。<br />
<br />
36節<br />
あなたがたに光がある間に光の子どもとなるために、光を信じなさい。<br />
<br />
救われるのにはタイミングがあります。神さまは忍耐して待っておられるのです。<br />
<br />
37節<br />
イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった。<br />
<br />
奇跡を目の当たりにしていた人もイエス様を信じない人はたくさんいました。<br />
<br />
40節<br />
「主は彼らの目を盲目にされた。また彼らの心をかたくなにされた。(略)<br />
<br />
信じるべきときに信じないと、心が固くされて、信じられなくなってしまうことがあります。<br />
<br />
47節<br />
わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たのです。<br />
<br />
イエス様が人となって世に来られたのは、人を救うためです。<br />
しかし、次に来られるときは、さばくことを目的として来られます。<br />
<br />
48節<br />
わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしがはなしたことばが、終わりの日にその人をさばくのです。<br />
<br />
また、こうあります。<br />
<br />
49節わたしは、自分から話したのではありません。私を遣わした父ご自身が、わたしに何を言い、何を話すべきかをお命じになりました。<br />
<br />
聖書には、イエス様が、話された言葉がたくさん記録されています。<br />
イエス様のことばを聞いて、神様の計画とみこころを知り、信じて救われる人となっていただきたいと思います。<br />
<div>
<br /></div>
Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-10173706992173598412017-06-04T14:30:00.000+09:002017-06-16T09:28:49.022+09:002017/06/04 福音集会<div class="MsoNormal" style="mso-char-indent-count: 1.0; text-indent: 10.5pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">みなさまこんにちは。</span><span lang="EN-US">6</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">月に入り、日も長くなってまいりました。いかがお過ごしでしょうか。今日は聖書の福音、よき訪れについて共に考えることができました。テーマとなるみことばはこれです。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal">
<b><span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">「私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。」(ローマ書</span><span lang="EN-US">1</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">章</span><span lang="EN-US">16</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">節)</span></b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal" style="mso-char-indent-count: 1.0; text-indent: 10.5pt;">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">福音とは何でしょうか。それはキリストに関することで、神の御子キリストが十字架にかかってくださったこと、そこで私たちの罪を代わりにおってくださったこと。そして、復活してくださったことです。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal">
<b><span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」(ヨハネ</span><span lang="EN-US">3</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">章</span><span lang="EN-US">16</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">節)</span></b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal">
<br /></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;"> どうして救われなければならないかということから考えてみましょう。テーマの言葉が記された当時のローマは人々が堕落しきっていました。贅沢を尽くし、食への強すぎるこだわりや権力争い、不道徳がありました。福音はこのローマの状況をも変えることができる神の力であるのです!実際、ローマでは権力者の中からもクリスチャンが起こってきます、ローマが変えられていくのです。私たちの中にも変えられるべき問題があるのではないでしょうか。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;"> では、このような問題の原因は何でしょうか。それは、神を神としないということであります。私たちは、私たちを生かしてくださっている神様がおられることを知ろうとしているでしょうか。探し求めれば明確に分かるようにしてくださっているのに、見ようとしないことは問題の始まりであります。神を神とせず、別のものを第一にすることこそ堕落の始まりであったのです。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal">
<b><span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">「それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなりその無知な心は暗くなりました。」(ローマ書</span><span lang="EN-US">1</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">章</span><span lang="EN-US">21</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">節)</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></b></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;"> この堕落した生活、私たちの姿をみている神様は、立ちかえってほしい思いから、私たちをなすがままになさいます。私たちは何も裁かれないから大丈夫なのではないのです。神様は立ち直るのを待っておられますし、立ち直らないものに刑罰があることは明確に示されています。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;"> しかし、初めのみことばに戻ってみましょう。福音こそ救いを得させる神の力です。なぜでしょうか。キリストの十字架は私たちのすべての罪を赦すための十字架でありました。神様の前にある負債はすべて支払い済みです。その証拠にキリストは復活されました。このキリストに信頼するものは救いを受けます。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
<div class="MsoNormal">
<span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;"> 神様を軽く見て、神様がいないようにして生きていかれるでしょうか。ぜひ神様を認め、この救いのみことばを受け入れられますように強くお勧めいたします。</span><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
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<div class="MsoNormal">
<b><span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">「主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。」(ローマ書</span><span lang="EN-US">4</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">章</span><span lang="EN-US">25</span><span style="font-family: "MS 明朝",serif; mso-ascii-font-family: Century; mso-ascii-theme-font: minor-latin; mso-fareast-font-family: "MS 明朝"; mso-fareast-theme-font: minor-fareast; mso-hansi-font-family: Century; mso-hansi-theme-font: minor-latin;">節)</span></b><span lang="EN-US"><o:p></o:p></span></div>
Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.com0tag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-66203200985176394592017-05-28T17:00:00.000+09:002017-06-11T14:25:55.726+09:002017/05/28 福音集会こんにちは!もう紫陽花の綺麗な季節ですね。<br />
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<div class="separator" style="clear: both; text-align: center;">
<a href="https://4.bp.blogspot.com/-2fXB-p6pe7M/WTzUTypY2pI/AAAAAAAAGZ0/1RnrEn2cI1ILMGoIVsujAJbac4NOTZMDwCLcB/s1600/securedownload.jpg" imageanchor="1" style="margin-left: 1em; margin-right: 1em;"><img border="0" data-original-height="1600" data-original-width="1600" height="400" src="https://4.bp.blogspot.com/-2fXB-p6pe7M/WTzUTypY2pI/AAAAAAAAGZ0/1RnrEn2cI1ILMGoIVsujAJbac4NOTZMDwCLcB/s400/securedownload.jpg" width="400" /></a></div>
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今日は東住吉キリスト集会から山森さんに来ていただいて聖書のメッセージを聞きました。<br />
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「あなたの造り主を覚える幸い ーキリストが与える救いへの3段階」というテーマで、聖書の語る救いについて3つのポイントを話してくださいました。<br />
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一つ目は「自分が生きているのではなく生かされているという事実を知る」ということです。<br />
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子供は世の中が自分中心であると考えますが、成長すると自分の見えないところにも多くの労苦と配慮があることに気が付きます。<br />
自分が神様によって生かされていることをに気が付くと、謙虚さを身に着けることができます。<br />
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二つ目は「自分が創造主の前に罰せられなければならない罪人であることを知る」ということです。<br />
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創世記37章26節が開かれましたが、聖書でもたくさんの罪深い人々について書かれています。<br />
あの使徒パウロも自分のことを<b>「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。」(Ⅰテモテ1章13節)</b>と言っています。<br />
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三つ目は「神の愛を知る」ということです。<br />
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何か悪いことをしたときに良心の咎めを感じることがあると思いますが、良心があるのは人間だけです。<br />
神様は人間を愛しておられ、特別に創られたのです。<br />
良心の咎めを感じたらどうしますか。<br />
一つの悪いことをした場合、十の良いことをすれば帳消しになりますか?<br />
相手に謝ったら許されますか?<br />
もし相手に謝ることのできない状況であればどうしたらよいのでしょうか?<br />
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<b>「『キリスト・イエスは罪人を救うためにこの世に来られた』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。」Ⅰテモテへの手紙1章15節</b><br />
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聖書にははっきりとキリストを信じたら救われると書いてあります。<br />
それは一つの罪もないキリストが私たちの罪を引き受けてくださったからです。<br />
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あなたを特別に愛し、イエス・キリストによってあなたを救う道を開いてくださった神様と共に歩まれることをお勧めします。Anonymoushttp://www.blogger.com/profile/15042521909692080008noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-7867034530683245581.post-82733621332102720372017-05-21T21:13:00.003+09:002017-05-21T21:13:38.288+09:002017/05/21 福音集会<span style="background-color: rgba(255 , 255 , 255 , 0); font-family: "uictfonttextstylebody"; font-size: 17px;">こんにちは!ここ数日、5月とは思えないほど暑い日が続いていますが、体調を崩してはおられないでしょうか?</span><br />
<div style="font-family: UICTFontTextStyleBody; font-size: 17px;">
<span style="background-color: rgba(255, 255, 255, 0);">今日も、福音集会で語られた聖書の言葉をご紹介します。<br />2人の方が語られたので、前半と後半に分けて、ご紹介します。<br /><br />◯前半<br /><ヤコブの手紙1章15節><br />欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。<br /><br />この箇所から、死に至らせるのは、自分自身の中にある欲望ということがわかります。<br /><br />人生にはいろいろと不安なことがありますが、もっとも大きな不安の一つは、死ぬときの不安、死んだらどうなるのか、ということでしょう。<br /><br />その不安の解決は、聖書の中にあります。聖書の中の救いを受け入れ、人生の安心を得て頂きたいです。<br /><br />◯後半 テーマ:出会い<br /><br />「出会い」という言葉をインターネットで検索すると、やはり一番多いのは男女の出会いについてで、次に多いのはビジネスのきっかけになる出会い、だそうです。<br /><br />人は出会いを求め、出会いによって幸せになろうとしているのかもしれません。<br /><br />とある本には、人は生涯に5万人とすれ違い、3千人と出会い、300人の名前を覚え、30人と友達になり、3人と親友になる、とあります。<br /><br />今日語ってくださった方は、カナダでの出会いによって、人生が大きく変わったと話してくれました。<br />異国の地でのホストファミリーとの交流や、異文化の生活は新鮮なことばかりでしたが、一番驚いたのは、その家族がクリスチャンで、その生活を目の当たりにしたことだったそうです。<br />教会にも行き、多くのクリスチャンと出会い、食事やいろいろな行事に参加するなかで、その人たちの優しさや愛情に触れました。そして、そんな出会いを通して、神様を知ることができたのです。<br /><br />ここで、イエス様とその弟子の出会いの場面を見てみましょう。<br /><br /><ヨハネの福音書1章35節~42節><br />イエス・キリストがその後弟子となるヨハネ、アンデレ、シモン(ペテロ)との出会いの場面です。<br />弟子たちは漁師であり、田舎訛りのある、無学な人でした。<br />ペテロはシモンという名前でしたが、イエスは彼に目を留め、ペテロと呼び、共に行動することを決めました。<br /><br />この記事から、出会いについて3つのことが考えられます。<br /><br />①イエス様はその人に会う前に、その人のことをよく知っており、その人のことを愛している。<br /><br />ペテロに初めて会ったとき、ペテロはもちろんイエス様のことはよく知りませんでしたが、イエス様はすでに彼の名前を知っており、また彼とこの先も行動することも計画の中に入っていました。これは驚くべきことです。<br /><br />しかし、私たちも、親と子の関係を考えるとき、このときのイエス様とペテロの関係が分かります。<br /><br />生まれたばかりの赤ちゃんは、親がどんな人なのかよく知りませんし、考えようともしないでしょう。しかし親は、赤ちゃんがお腹の中にいるときから、その子の成長を気にかけて心配し、どんな子か考えます。そして直に会える日を期待しています。<br /><br />同じように神様は、私達が神様を知る前に私達のことを知ってくださり、さらに私達が神様を知るようになることを期待しておられるのです。<br /><br />②イエス様との出会いは人生を変える<br /><br />ペテロは後に手紙で、<br /><ペテロの手紙第二 1章2節><br />神と私たちの主イエスを知ることによって、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。<br /><br />と記しています。<br /><br />ペテロのように、私たちも、イエス様を知ることによって、良い人生に変わっていくのです。<br /><br />③イエスを信じる人同士は別れを経験しない<br /><br />イエスを信じ、罪から清められることで、永遠の死から救われます。<br /><br /><ヨハネの福音書5章24節><br />わたしのことばを聞いて、私を遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。<br /><br />お互いに信じる人となり、今の人生も、そしてその後も主とともにあるいのちを喜ぶ人となりましょう!<br /><br />今週も主にあって守られますに!</span></div>
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